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  掲載記事一覧  
     
  ◆老舗〜数世紀の歴史を受け継ぐ
     
  饅頭と共に日本の歴史を歩む〜塩瀬総本家第34代川島英子氏インタビュー  
    言葉の意味の解釈は人様々で、正解はない。「老舗」という言葉に関しても、様々な解釈がある。50年で老舗と呼ぶ店もあるだろうし、「200年は経たないと老舗と呼べない」という人もいるだろう。いくつかの辞書を調べると、「長い間、代々同じ商売をしている」という意味になるようだ。しかし、饅頭で有名な「塩瀬」を老舗と呼ぶことに意義を唱える人は、まず居ないであろう。その起源は650年前、京都の室町に足利氏が幕府を置いた室町時代に遡る...つづきはこちら
     
  財産は残せないが、暖簾は残せる〜壺屋と最中  
    東京・本郷にある和菓子屋、「壺屋總本店」。寛永年間に創業され、400年近い歴史を持つ菓子屋である。「江戸買物獨案内」にも掲載があるが、江戸時代は元飯田町中坂と、芝の西久保、そして現在も残る、ここ本郷の3店舗が存在した。ここで有名な製品は最中。壺屋では、割りと作り方を変えず、伝統を守っている。「約400年やっていますが、結局、良い物しか残らないのです。イチゴ大福など色々と新しい菓子もありますが、400年後に残っているか、分かりませんよね。最中は淘汰された結果残ったものです。昔の人は本当に良く考えていました。だから皆様に支持され、今も最中は残っているのです」...つづきはこちら
     
  寿司のルーツを訪ねて  
    今や寿司は、日本人にとって人気がある食べ物というだけでなく、外国人にとってもグルメの代名詞となっている。欧米都市のグルメランキング上位に寿司屋が載るのは、そう珍しいことではなく、「sushi」は世界中で通じる言葉となった。但し、ここで言う寿司とは酢飯の上に薄切りの生魚を乗せて握られた、所謂握り寿司のことである。正確に言うと、寿司は握り寿司だけを意味する訳ではなく、様々な種類がある。握り寿司は江戸時代後期、1800年過ぎに出現したと言われる、寿司の1つの形態。そして、寿司の歴史の上では、一番若い部類に入る...つづきはこちら
     
  王子扇屋、料理屋番付小結の玉子焼き  
    子供にも大人にも人気のメニュー、玉子焼。かつては「巨人、大鵬、玉子焼」と言われた程、古くから日本人馴染みの食べ物だが、鶏卵や砂糖が容易に手に入るようになる前までは庶民の口にはそれ程近くない料理であった。そんな玉子焼で有名な東京都北区・王子にある扇屋は、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一貫として王子に飛鳥山公園を造る120年前に創業、現在まで400年の歴史を持つ。その玉子焼は、現在の14代目当主まで代々受継がれた特別の味だ...つづきはこちら
     
  小伝馬町の台所、魚十に見た、江戸っ子の心意気  
    江戸最古の食もの屋として紹介されることもある、日本橋小伝馬町にある「魚十」。江戸時代中期、元禄年間に創業以来暫く、仕出を専門にしていた。その後時代の変化と共に仕出と料亭の業態を行き来し、最近では料亭をメインに、地元の人の胃袋を満たしている。そんな江戸料理の老舗である魚十第13代目の...つづきはこちら
     
  山なれば富士、白酒なれば豊島屋〜江戸買物獨案内から  
    1824年(文政7年)に中川芳山堂という出版社が出した「江戸買物獨案内」という本がある。江戸の地理に不案内な人のために作成された案内書だが、開けてみると、当時の江戸は飲食店が多く、如何に賑やかな町だったか伺い知れる。その中の1ページにあるのが、白酒で有名な豊島屋。その後、1836年(天保7年)年に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会』にも、越後屋三井呉服店(現三越)と共に登場している。右の写真は、豊島屋で保管している、「江戸買物獨案内」...つづきはこちら
   
  ◆守りたい伝統・技術・仕事・職人技
     
  江戸料理の将来に関して、八百善10代目に尋ねる  
    以前から疑問だった。京料理の店やメニューは良く見聞きするのに、何故、江戸料理の話はあまり聞かないのか。東京でも、である。その疑問に対して、享保年間(1716~1735)に開業、江戸で最も成功した料亭の1つ、「八百善」の10代目...つづきはこちら
     
  下足番〜江戸の粋を守る仕事  
    東京・根岸で江戸時代から300年以上続く料亭、「笹乃雪」の入口。店に向かってきた老夫婦が中に入ろうとに引戸に手を伸ばそうとすると、「いらっしゃいませ」の声と共に、中で客を待っていた男性達が戸を開けた。彼らは客を店内に招くと、「今日は生憎の天気ですね」と声をかけ、老夫婦の傘を預かり、脱いだ靴を棚にしまい、数字の書いた札を1枚、渡した。「お帰りの際に札をお出しください」と声をかけ、客が店内に消えると、また引戸の傍に戻った。この男性達は「下足番」と呼ばれる。以前は普通に見られた職業であるが、現在その姿を見かけることは都内でも珍しい...つづきはこちら
     
  足袋〜消え行く日本の伝統技術  
    江戸時代、第4代将軍徳川家綱が統治していたとき、武蔵国と下総国を渡る橋として両国橋は掛けられたという。現在の両国は、その橋の東岸、かつての下総国側の地区にあたる。その中心である両国駅から数分歩くと、大きな通り沿いに「喜久や足袋本舗」の大きな看板が見える。店のディスプレイには様々な足袋が飾られている。引き戸を開けると、ミシンなどの工具が並び、その奥にある畳の間の上に正座し、キリッとした姿勢で御誂(あつらえ)帳に書き物をしている人物こそが、代々の天皇家に足袋を納め、有名力士の足袋も手がけている、宝暦元年創業 両国喜久や足袋本舗 11代目...つづきはこちら
     
  天然理心流ー幕末を馳せた剣、今に生きる  
    数年前のテレビ番組を通じた新選組ブームで一躍注目された剣法、「天然理心流」。新選組の中心となる隊士達が習得し、有名な池田屋事件をはじめとする幕末の京都で起った事件や、日本各地であった戦いで活躍した剣法である。実戦本位の剣法で、実際に命のやり取りをする場面になると当時、滅法強かったと言われる剣法であるが、新選組の消滅と共にいっとき、時代に埋もれてしまった...つづきはこちら
     
  銭湯・ペンキ絵〜東京から消えてゆく、もう一つの富士山  
    昔の人は富士山の見える坂を「富士見坂」と名づけ、晴れの日は、その坂の上から富士山を楽しんだという。現在でも東京の様々なところに「富士見坂」が残っているが、ビルが林立する東京では、残念ながら「富士が見える坂」は少ない。しかし、富士を望む景色は、今でも特別なものである。「富士山が見える展望」を売りにしている新築マンションは多いし、東名高速を走れば必ず富士山に目を奪われる。ところが、今、もう一つの富士を望む景色が東京から消えかかっている...つづきはこちら
   
  ◆残したいもの、場所、建物
     
  函館〜古きを温め、新しきを知る  
    「私はこの街に生まれて本当にラッキーです。この街は、歴史的価値のある古い建物をとても大切にしているのです」と、北海道函館市大手町にある喫茶店「Tu Prends Du the(テュ・プランド・テュ・テ)」のオーナーである...つづきはこちら
     
  清澄長屋と清澄寮〜戦火を潜り抜け、深川を見守る  
    平賀源内や松尾芭蕉が居を構えた、歴史ある町、江東区深川。江戸を代表する下町の一つで、人々は「いき」であることを大切にしたという。明治時代には東京の区名となり、戦後まで東京市深川区と呼ばれた。域内には有名な富岡八幡宮をはじめ数々の由緒ある寺や、江戸時代に造られた運河などが残っており、歴史の深さを感じさせる。その深川にあり、東京都の指定名勝である清澄庭園の東側に、今では珍しい長屋形式の住居が建っている。清澄通りに沿いにあるその住居は通称、清澄長屋と呼ばれる、80年以上も前に建てられた住居だ...つづきはこちら
     
  男の聖地:定食屋  
    JR恵比寿駅東口から数分歩いた、とある場所。昼食時には、ネクタイを締めたサラリーマンや、ガタイの良い男たちで賑わう。昔ながらの煙草屋と畳店、雑貨屋に囲まれるその場所は、スタイリッシュな恵比寿のイメージとは、随分離れている。昼食を屠る客は、ほぼ全員が中年男性。彼らは時間に追われているように、黙って食事を掻き込んでいる。「こづち」の看板を出すその定食屋は、周辺で働く男たちには名の知れた店である...つづきはこちら
     
  尾張徳川家の贔屓店と歴史を共にした椎の木  
    東京から新幹線のぞみに乗り約90分、三河安城駅を通過したとのアナウンスが流れると、次の駅で降りる乗客が降りる支度をしはじめる。そして約10分後に到着する駅は名古屋。「市」としては日本で3番目に大きいこの街を中心とする愛知県はその昔、現在も地名として残っている三河、そして尾張に分かれていた・・・・・・名古屋駅で地下鉄桜通線に乗換え、2駅目の「丸の内」駅で降りる。地上に上がると東京の丸の内さながらオフィスビルが並び、その間をビジネスマンが通り過ぎる。しばらく歩いて昔ながらの問屋街を通り過ぎ、少しはずれた場所に歴史を重ねた佇まいの料亭がある。その入口は重厚感があり、ハイヤーはともかくタクシーでで来なかったことを少し後悔してしまう。ここは「河文」。寛永年間(1624年から1643 年)に創業し、尾張徳川家御用達として、主に武家を相手にしていたという料亭で...つづきはこちら
     
  A shot of sweet romance 〜 禁酒法時代のバーボン  
    1919年から1930年代前半まで米国で施行されていた、いわゆる「禁酒法」。米国の歴史に詳しくない人も、酒を飲まない人も、アル・カポネが密造酒で儲けた時代と言えばわかる筈だ。この間、米国ではアルコール分0.5パーセント以上の飲み物が禁止されたが、法の目を潜り酒は密造され、不法な酒場も存在したという。そんな禁酒法時代に蒸留されたバーボンが、その深みのある味と、時代背景が与える珍しさも手伝い、一部のバーボンファンには垂涎のボトルとなっているという...つづきはこちら
     
  ジュークボックス〜暖かく心に届く音  
    スタイリッシュな恵比寿ガーデンプレイスとは対照的に、その直ぐ脇にある古い住宅地。小さく古びたゲームセンターの前で、ある秋の晩、初老の男性が一人で佇んでいた。彼はそのゲームセンターから流れる音楽に、気持ち良さそうに耳を傾けていた。そこで30分間程音楽を聞き入ると、そのゲームセンターの中に座っていた、このゲームセンターのオーナーと思われる男性に声を掛ける。「ジュークボックスからの音楽は幾ら聴いても飽きないですね」。オーナーと思われる男性は、小さく頷いた...つづきはこちら
     
  佃煮の故郷を歩くー江戸創業の佃煮屋が並ぶ道り  
    大江戸線の月島駅で下車し、月島商店街を背に、佃大橋に向かう。橋を潜り左手に隅田川を見ながら川沿いに歩くと、10分弱で所謂「佃」という地域につく。佃というと、ここ十年来高層マンションが次々と立てられ、東京駅や銀座、近年開発の進んでいる豊洲などにアクセスが近く、かつ隅田川沿いで良い景観が楽しめるため、東京23区でも人気の高い居住地の1つである。地図上では清澄通り(都道463号線)、佃大橋通り(都道473号線)、隅田川、そしてその隅田川の派川で囲まれた四角の地域を指す...つづきはこちら
 
  ◆ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ
       
  羨望のプラザ・ホテル  
    4月のある夕方、奥谷啓介は、ニューヨーク「プラザ・ホテル」の1階にあるカフェに腰を下ろしていた。ここで10年間働いてきた奥谷氏は、この世界有数のグランド・ホテルの将来に関して考えていた。プラザ・ホテルは改装工事を予定しており、その後、部屋の大半がコンドミニアムとして売却されることになっていた...つづきはこちら
       
  羨望のプラザ・ホテル 昔と今  
    ニューヨークのプラザ・ホテルと言えば、誰もが憧れるホテル。部屋からの眺めは、マンハッタンのセントラルパークを見下ろす。一歩外にでれば、高級ブティックが軒を連ねるFifth Avenue(フィフス・アベニュー)に出る。数々の映画が撮影されたホテルのロビーは、眩いばかり。ところが、そのプラザ・ホテルは転機を迎えている...つづきはこちら
       
  アート・音楽・文学〜芸術家の天国、100周年を迎えたホテル・チェルシー  
    ニューヨークのマンハッタンにあるホテル・チェルシー。芸術や文学好なら、一度は滞在してみたい場所だ。アーサー・ミラーが宿泊し作品を書き、マーク・トウェインが訪れ、文学者のアーノルド・ウァインシュタインが30年間住んだ。芸術家のジム・ダインやラリー・リバースらもこのホテルを...つづきはこちら  
       
  米国の中心、ウィラード・ホテルの100年後  
    高校の英語の授業で、「ワシントンDCのDCは、Dangerous City(デンジャラス・シティー:危険な街)の略です」と先生が冗談を言った。これは、1960年・70年代のワシントンDCにとって、あながち冗談ではなく、むしろ皮肉とも取れる。実際に米国の首都は当時、人種差別などに起因する暴動により、大分荒廃したそうだ。その影響を受けた建物の1つが、古くからワシントンDCにある、通称「Willard Hotel(ウィラード・ホテル)」。米国の歴史を見続けてきた同ホテルは1968年、近辺の治安悪化から営業を中断。閉店は18年間にも及んだ。このホテルは日本人にも大変意義のあるホテルで、1860年に日米修好通商条約の批准書を交換するため渡米した遣米使節団一行が宿泊したホテルでもある。そんなウィラード・ホテルは2007年を「次の100年に向けた新たなスッテップ」と位置づけている...つづきはこちら  
       
  150年前、ワシントンDCに滞在した遣米使節団  
    本サイトの別記事にも掲載している通り、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団一行は1860年の2月に江戸を出発。遣米使節団を乗せたポーハタン号はホノルルを経由して太平洋を横断、サンフランシスコを経由してパナマ運河を通り東海岸に到着した。その後、ニューヨーク、フィラデルフィアに滞在し、その後ワシントンDCに立ち寄った。ワシントンDCではウィラード・ホテルに滞在した。遣米使節団一行はウィラード・ホテルにとって、はじめて受け入れた重要な客であった。この写真は、再オープン20周年を記念して、2006年に同ホテル内で展示された歴史資料の中から、同ホテルの許可を得て掲載している。遣米使節団一行訪問の様子をスケッチしたものである...つづきはこちら  
       
  廃墟から救われた、ヴィンテージのドア  
    ニューヨーク・マンハッタンを走る地下鉄を「125 th Street」駅で降りると、そこはマンハッタン北部のハーレムと呼ばれる地区。アフリカ系アメリカ人の文化の中心地である。そしてメイン・ストリートの125th Street、別名「マーティン・ルーサー・キング通り」を3rd Avenueに向かって歩く。店舗群がひと段し、景色が荒涼としはじめる3rd Avenueと2nd Avenueの間に、廃墟にも見えてしまう程、古めかしいたたずまいの建物が見える。次々と人が吸い込まれているその入口の上には「Demolition Dept」の看板がある...つづきはこちら  
       
  西海岸の老舗で味わう開拓者精神  
    メキシコとの戦争の最中、1846年に米国がカリフォルニア州を自国領土と宣言したのと同時に地名が変わり誕生した街、サンフランシスコ。海と丘に囲まれた街並と穏やかな気候のため旅行先として人気があり、また米国で一番住みたい都市にしばしば選ばれる都市である。そのサンフランシスコで一番古いと言われるレストラン、「TADICH GRILL(タディッチ/タディッシュ・グリル)」は150年以上に渡り営業し、特にそのサワードウは地元の人々に愛されている...つづきはこちら  
     
  ◆どこかで見た、聞いた懐かしいもの
       
  Far East Network〜FENの思い出  
    日曜日の朝、AMラジオの周波数を810kHzに合わせる。流れてくる良く選曲された心地よいスムース・ジャズは、心も体もリラックスさせてくれる。もし、初めてこの洗練されたプログラムを聞くのであれば、これが米軍がスポンサーする放送局からのものだとは気づかないだろう。そして暫くすると、「This is Armed Force Network」のアナウンスが流れてくる。以前この周波数にダイアルを合わせた人は少々戸惑うかもしれない...つづきはこちら  
       
  鉄砲洲〜愛され続ける地名  
    昔ながらの町並みが残る東京都中央区湊。2丁目から3丁目にかけて散策してみると、「鉄砲洲」なる文字があちらこちらから目に入る。公園や神社にはじまり、食堂や寿司屋、病院にいたるまで「鉄砲洲」を冠している。さらには「鉄砲洲」なるバス停まであり、はじめてこの地域に足を踏み入れると、ここが鉄砲洲という場所のように錯覚する。確かに良く見ると、バス通りは「鉄砲洲通り」という名前がついている。ところが、実際には鉄砲洲という住所は存在しない。東京都の特に中央区には、江戸時代の名残りがある地名が多く残されているが、鉄砲洲という名前は特に目を引くものの一つである。...つづきはこちら  
       
  世界中の宿泊者を惹き付ける外灘の眺望  
    空港を出てタクシーに乗り街に着くと、上海の街は相変わらずエネルギッシュな人々であふれていた。世界中から人と金が集まり、いま世界で最も成長している街の一つであるここ上海には、ビジネスや観光目的に世界中から旅行者が集まるため、数多くのホテルが林立している。その上海中心部の黄浦区にある外灘(ワイタン)地区に、アールデコ様式建築のよく目立つホテルがある。そのホテルはブロードウェイマンションホテル(Broadway Mansions Hotel − 上海大厦)といい、長い間上海のシンボルとして親しまれた。そしてまた、戦前の上海では最も高いビルであった...つづきはこちら  
       
   
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