王子扇屋、料理屋番付小結の玉子焼き
 
 

子供にも大人にも人気のメニュー、玉子焼。かつては「巨人、大鵬、玉子焼」と言われた程、古くから日本人馴染みの食べ物だが、鶏卵や砂糖が容易に手に入るようになる前までは庶民の口にはそれ程近くない料理であった。そんな玉子焼で有名な東京都北区・王子にある扇屋は、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一貫として王子に飛鳥山公園を造る120年前に創業、現在まで400年の歴史を持つ。その玉子焼は、現在の14代目当主まで代々受継がれた特別の味だ。

王子駅を降りて、音無川に向かって歩いて1分も経たないうちに、雑居ビルの麓に小さな木造の縦長の小屋が見える。正午あたりにその小屋の窓が開くと玉子焼きが所狭しと並べられる。開店と同時に主婦や年配の方中心の列ができ、玉子焼きは次々と売れていく。ここが1648年(慶安元年)に創業し、現在まで続く名店、扇屋。最初は農家からスタートし、料亭になり、音無川沿いの有名店になった。

「もともとは農家だったんです。三代将軍家光の時代に初代弥左衛門が農業のかたわら掛茶屋をしていたのが始まりで、それが料理屋になりました。茶店とでもいうんでしょうか。ここら辺は『飛鳥山』というんですが、8代将軍の徳川吉宗が山を開放したんですね。それが王子です。この音無川も、本来は石神井川という名前です(注1)。それが、吉宗が故郷の紀州(和歌山)に似ているということで、音無川と呼び始めたということです。その音無川沿いに扇屋の料亭があったのですが、第2次世界大戦で焼失してしまいました」と語るのは、14代当主の早船武彦氏。

料亭の扇屋は、落語の「王子の狐」の舞台になっており、また江戸高名会亭尽(注2)などにも掲載され、非常に流行っていたという。「江戸時代、このあたりは江戸外と呼ばれていました。本郷3丁目の「かねやす」までが江戸内。従って、この近辺は下級武士がたくさんたむろしてて、彼らが料亭に来たのです。新撰組も公式な記録には残っていないが、うちの料亭には寄っていたということです」と早船氏は続ける。

扇屋が江戸時代に非常に繁昌していたことは、昭和3年に発行された「王子町誌」を読んでもわかる。「文化文政頃の王子稲荷の繁昌は実にすばらしいもので、今日から到底想像もつかない程であった。それが為め沿道には澤山の茶屋が出来た。其頃の江戸圖や名所圖會の類をみると、飛鳥山六こく坂の邊から現在の岸町にかけて何れも「此の邊茶屋多し」の久我入れられてある。中でも代表的なもので王子名物になつたのは海老屋扇屋の二軒である。これは当時の文学等にも取り入れられて、簟に王子の茶屋といふのではなく、大江戸での一名物であつた」と同誌に記載されている(注3)。

余談であるが、江戸時代、音無川沿いの店は非常に繁昌していたようである。前述の王子町誌をはじめ、江戸名所図絵などの文献にも、夏には人々が涼を取る場所で非常に賑わい、様々な行事があったと記載がある。王子の海老屋と扇屋は共に大変繁盛していて、19世紀初期に発行され、東西の料理屋を比較した「会席即席仕出し御料理番付」には、西の大関に海老屋、小結に扇屋が載っている。「昔の料亭は、武士向きと町人向けの2つに分かれていました。扇屋は武士向けの堅物の料亭だったということです。双璧で有名な海老屋は町人向けだったということです」と、早船氏が教えてくれた。王子町誌によると、海老屋は青木氏により経営されていたが、同誌発行の20年程度前に残念ながら廃業してしまった。

さて、現在の扇屋は料亭をやめ、玉子焼きの製造と販売を行っている。「料亭は10年以上前にやめました。理由は花柳界がなくなったことと、大手企業が王子から離れたため、客が居なくなったことです。大企業が1社あれば接待で十分やっていけるのですが、今はデフレも進み難しいですね。接待でない普通の人が1晩で1万円や2万円支払うは正直今の世の中厳しいです」と早船氏は語る。

ここで少し、玉子料理の歴史について触れたい。日本は仏教の影響で肉食を禁忌する傾向があったと言われ、そのため鶏卵も余り食べられていなかった。戦国時代には戦場で食べられていたとも言われているが、日本人が鶏卵を食べるようになったのは江戸時代としている資料が多いようだ。鶏(ニワトリ)自体は古くから存在していたとされ、天岩戸に閉じこもった天照大神を出させる為、鶏(長鳴鳥)を集めて鳴かせた、という日本神話もある(注5)。

江戸時代には生玉子やゆで玉子を売る行商が居たとされ、またこの頃には様々な玉子料理がつくられた。江戸時代の天明5年(1785年)に出版された有名な料理本「万宝料理
秘密箱」には、珍しい玉子料理を掲載した「卵百珍(たまごひゃくちん)」が載っており、103種類の玉子料理が紹介されている。なかでも黄身と白身がひっくり返ったゆでたまご「黄身返しのたまご」は今でも珍料理としてときどき紹介される。そして鶏卵が本格的に普及したのは昭和12年頃。畜産家の橋本善太氏が高頻度で卵を生む鶏の開発に成功してからだと言われる。

話を扇屋にもどそう。扇屋が玉子焼きを焼くようになったきっかけは偶然であった。早船氏は語る、「王子は英国のリッチモンドに似て風光明媚だということで、多くの外人が見えていたそうです。扇屋にも良く外国の方が来ていたそうで、その中の1人がウチの厨房に入ったんですね。そして玉子料理の仕方をアドバイスしてくれた。それが釜焼玉子の由来です。上火と下火の両方で焼くんです。出来上がりはパイみたいで、ケーキ見たく丸い。鶏卵のみを使った、ウチの名物料理です。当時鶏卵は非常に高価でしたから、大名に良く出したそうですよ。王子は日光街道沿いにあるんです。江戸時代の参勤交代の際、日光街道では下る大名と上る大名が擦れ違えないんで、王子に待機して擦れ違ったようで、その為王子は賑やかだったんです」

料亭こそしていないが、そのスピリットと味は現在でもまだ健在である。現在営業している小さな店の店頭に並べられる玉子焼きは「厚焼玉子」と呼ばれ、地元の人に大変人気である。すぐ裏の厨房で調理し、そして販売する。その味は玉子のコクとちょうど良い甘みが絶妙で、一度食したら忘れられない。そして扇屋の伝統である「釜焼玉子」は調理に手間がかかるので事前の予約が必要となる。

「釜焼玉子は江戸時代とほぼ同じ作り方をしていますが、微妙に違う部分もあります。例えば火加減です。上火は備長炭ですが、今は下火はガスです。蒸し焼きにするのですが、ダシの割りは秘伝です。あと、酒もちょっと使います。1つ作るのに3〜40分かかるので予約のみとさせていただいています」と14代当主は語る。

そして今、扇屋の玉子焼きのファンは全国に広がる。筆者が扇屋と出会ったのは約6年前。その当時から節目の日に扇屋の厚焼玉子を買うことが習慣になっていた。その頃の当主がよく語っていたのは、「老舗と言っても昔ながらの商売を続けていては、やっていけません。正直申し上げると、扇屋は少し時代に乗り遅れていると思います。我々も変わらなければならないのです」。そしてその後、扇屋はインターネットを通じて広く宣伝するようになった。「すると全国から注文が入るようになりました。また最近では新聞や雑誌の取材も多く、方々に掲載されています。そしてそれを見てまた注文が入る。大変嬉しいことなのですが、何せご存知の通り全て手作りなので、何とも大変になっています。これも息子のアイデアですが、15代目として扇屋を継ぎ、歴史を絶やさないでくれるので幸せです」(2011年4月3日掲載)

 


Photos by Urban Heritage Chronicle


江戸高名会亭尽(1837年から40年)(注2)
から 王子扇屋(クリックで拡大
*東京都 北区飛鳥山博物館所蔵
(同館の許可のもと掲載)


明治末期頃の王子扇屋(クリックで拡大)
*東京都 北区飛鳥山博物館所蔵
(同館の許可のもと掲載)


明治初年の王子扇屋(クリックで拡大)
*東京都 北区飛鳥山博物館所蔵
(同館の許可のもと掲載)

フェリックス・ベアト撮影
「王子の茶屋」1860年頃(注4)(クリックで拡大)
*横浜開港資料館所蔵
(同館の許可のもと掲載)


扇屋の「厚焼玉子」(クリックで拡大)


 
 

注1) 江戸名所図絵(江戸時代後期の天保年間(1830年から1843年)に刊行)により編集部確認済み。

注2) 初代歌川広重による江戸時代の有名な会亭を描いた作品。

注3) 王子町誌は、昭和3年12月に当時の王子町により編集、発行された。ここでは同誌の「海老屋扇屋」の項から抜粋。

注4) フェリックス・ベアト- Felix Beato(1832-1909)は、世界各地で活躍し、1961年頃に日本で活動していた(但し日本での正確な活躍期間は不明)写真家。

注5) 古事記などに載っている

 
     
 
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