江戸料理の将来に関して、八百善10代目に伺う  
 

以前から疑問だった。京料理の店やメニューは良く見聞きするのに、何故、江戸料理の話はあまり聞かないのか。東京でも、である。その疑問に対して、享保年間(1716~1735)に開業、江戸で最も成功した料亭の1つ、「八百善」の10代目、栗山善四郎氏が、江戸料理と八百善の歴史と共に丁寧に答えてくれた。

江戸料理は、江戸っ子の気質を反映した華やかな料理である。その江戸料理の料亭として、当時最も栄えた店の1つである八百善は、江戸時代に発行された様々な料亭番付でも常に横綱として君臨していた、江戸を代表する料亭で、江戸時代の人々の舌をうならせ、明治時代にはロシアのニコライ2世などの接待にも使われた。有名な『1両2分の茶漬け』は、寛天見聞録(寛政から天保まで、1798年から1845年まで、の風俗を記した記録。著者など不明)に掲載された八百善の話である。

最初、八百善10代目の栗山善四郎氏にインタビューを申し入れた際、「1時間やそこらじゃ江戸料理を話すことは難しいですね。もっと時間を取りましょう」と返事をいただいいた。インタビュー場所として指定された都内某所に伺うと、そこは栗山氏が主催する料理教室が開催されていた。生徒からの矢継ぎ早の質問に、1つ1つ丁寧に、熱心に回答する栗山氏。「あの料理教室は、生徒の半分がプロなのです。店を持っていたり、どこかで料理人として入っていたり」と話し始めた栗山氏とインタビューは3時間に及んだ。栗山氏によると「それでもまだ3分の1しか話していない」、とのこと。

−まずは、江戸の歴史と江戸料理の話から伺えますか?

「それではまず、料理とは何か、からはじめましょう。料理とは、日本では煮炊きからはじまります。それが商売になると、半完成品を販売したり、料理そのままを売ったりするようになりました。古いものだと、ウナギの蒲焼があります。話が逸れますが、何故蒲焼と呼ぶかご存知ですか?蒲焼が『姫蒲』という植物に似ていたからです。大黒様とウサギの話はご存知だと思います。火傷して、蒲の穂綿に包まれば治るという話ですが、そこに出てくる植物です。昔は竹串にウナギを開かないで、そのまま口から刺して焼いていました。それが、蒲の穂に似ていると言う理由で、蒲焼きと言ったのです。万葉集にもウナギは出てきますが、ウナギは高蛋白でスタミナがつくと、経験から昔の人は知っていたのでしょう。ウナギ取り、などという人がいて、売ってたりしていたという話です」

「昔の旅籠(はたご)が、料理屋の起源だったかもしれませんね。旅をするとき、ずっと野宿という訳にはいかなかったと思うんです。従って宿は随分前からあったと思います。そこで、その地域の得意な料理を出したのではないでしょうか。例えば、桑名だと焼蛤といったように。そうやって、人に食事を出す商売ができていったと思うんです。今は飲食(外食)は、遊興を伴いますが、それは元禄(1688年〜1703年)の頃、3〜5代の将軍のころに出来たものだそうです。最近ですよね。『寛天見聞録』という本がありますが、そこには八百善も出ていますよ」

「織田信長や豊臣秀吉の頃は、遊興の飲食はありませんでした。理由の1つとして、当時は買い食いを戒めていたことがあります。料理は自分で、が基本でした。従って、どうしても外で食べなければならない際は、弁当を持って行ったようです。もし事前に人が家に来ると分かっているときは、『何月何日に行くから用意しておいて下さい』と事前に頼んでいました。特に、冠婚葬祭では料理を出さなければならないので、そうしていたようですよ」

「話が脱線しますけど、江戸の人は駄洒落が好きでした。例えば、豆豆しく、黒豆なども駄洒落です。ダシは、『とる』でなく『ひく』って言いますよね。あれも、祭りの『山車(だし)を引く』に引っ掛けたもなんです。江戸の人は駄洒落ばっかり言っていた。でも、それを本物にしてしまったんです。そこが素晴らしいですね。別の例にマグロがあります。江戸の人はマグロを嫌ったそうです。『昨日マグロを食べたよ』などというと、『バカかお前、マグロなんか食べやがって』という感じだったそうです。昔の人は、マグロを『しび』と呼んでいたました(注1)。それを、駄洒落で死ぬ日とひっかけて『死日』と言った。だから、嫌われました。それと、姿が良くなかった。東京湾ではマグロは取れなかったんです。マグロは銚子沖で取れていました。それを江戸まで、荷車に乗せて、水をかけながら江戸の市中を運んでいました。マグロは大きく、200キロぐらいある。それがドザエモンにそっくりなので、凄く嫌わていたそうです。昔は輸送保存の技術が有りませんでした。だから、例えば八王子などに良い寿司屋は無かった筈ですよ。昭和30年以降でしょうか、各地に寿司屋が出来始めたのは」

―脱線ついでに伺いたいのですが、昔は江戸湾周辺に美味しい寿司屋が多かったということでしょうか?

「ちょっと違います。寿司はもともと保存技術です。慣れ寿司とか、大阪寿司などです。寿司が2貫づつ出てくる理由は、昔は大きいのを2つに切って出していたことにあります。寿司は昔は茶請けでした。焼き芋なんかと一緒で午後3時位に、夕食の前に食べるものでした。昔は夕食前に『腹減った』となると、『寿司でも食ってろ』と言う感じだったそうです。掴み寿司なんてのが出てきて、それが握りの原型だと思います。昔は生はなかった。だから、芝えびをそぼろにした『ぼんぼり』とか、どんこ(椎茸)を甘辛く煮たりしたのを乗せていました。コハダなんて昔は、ガッツリした塩に2日間漬けて中の水分を抜いて、酢に漬けていました。以前、ある老舗寿司店で食べさせていただいた際、『これじゃ辛いよ』といったら、『バカ野郎。コハダは辛いものなんだよ』と言われましたよ」

 


Photos by Urban Heritage Chronicle


江戸料理のみならず、日本の料理史に深い造詣
を持つ栗山氏。自身で研究所も持っている。


東都難波料理茶屋一競(画像クリックで拡大)
19世紀初期、一夢庵小蝶再評筆
(北区飛鳥山博物館所有のものを同館の許可のもと掲載)


会席即席仕出し御料理番付(画像クリックで拡大)
19世紀初期、吉田屋小吉坂
(北区飛鳥山博物館所有のものを同館の許可のもと掲載)


 
 

「昔は河岸っぷちしか、生寿司は出せなかった。腐ってしまいますから。昭和30年以降、冷凍庫が普及してから全国に寿司屋ができはじめた。寿司はもともと保存の技術です。本当に上手い寿司は大阪寿司で、大阪にあったという人も多いようですね」

―話は戻って江戸料理ですが、江戸時代、八百善はどのような料理を出していたんでしょうか?

「こんなエピソードがあります。信長がアサクラという場所を文化の時代に攻めたそうです。そして料理人を生け捕りにして、料理を作らせました。1日目、料理人は都会風にさっぱりとした味付けにした。そうしたら、信長がさっぱりしすぎて不味いと。2日目は田舎風に、濃い味付けにしたら美味しいと言ったそうです。昔は料理人といっても料理番といって、料理が上手い武士がやっていました。そして家康が幕府を開いたとき、江戸は武蔵野の原っぱでした。日比谷なんて入江で、300人程度が住む小さな集落だったようです。それでも、その地域では一番大きな町だったそうなんです。征夷大将軍になったときの話しです。愛宕山は、外堀を掘った土を捨てたものが山になったそうです」

「そうやって町を開くため、当然男が集まってきて仕事したのですが、それで吉原ができたらしいのです。しかも、昔は中央集権の参勤交代です。入鉄砲出女といって、女性が居ません。それで『吉原で遊ばせて、八百善で飯を食わせろ』という感じだったそうです。その後八百善は接待の場所として使われるようになったそうです。大名諸侯や町人、商人、武士が地方から江戸に出てきますね。すると、いろいろと贈収賄があるのです。それで八百善で接待したそうなんです。今のゴルフ、ホテル、銀座のクラブみたいなものでしょうか。例えば、昆布を安く買い占めたいって思うと、直接、松前藩にいくんじゃなく、松前から江戸に来ている大名なんかに交渉するんです。それを八百善でやっていたそうです」

「寛天見聞録に『1両2分の茶漬け』という話が載っています。ある人が2人で八百善に茶漬けを食べにいったら、4時間待たされて1両2分取られた。腹をたてて店主に聞くと、『玉川の上水、瓜と茄子のきりまぜ、玉露、越後の1粒より』を使った。それでこんなに高いという。そして客は納得して帰っていく、という話です。当時、掛けそば1杯が16文しました(注2)。これで計算すると、物価の上下もあったろうけど、1両は7万円から20万円するということになります。相撲の十両は、年間の給料が十両になって、『十両でようやく飯が食える』と言われていました。つまり、1両2分の茶漬けの価値がわかるでしょう」

「昔、いい水は玉川の取水口にあり、そこまで往復で70キロ。従って早飛脚を飛ばして水を取ってきたと書いてあります。ところがウチの祖父が、『それはおかしい、遠すぎる』と。それで玉川でなく隅田川だったのでは、と言っていました。隅田川だと往復で20キロです。でも、早飛脚で70キロは現実的だと言う人も多いんです。米に関しては、昔は米は『つきや』(注3)という人がやっていました。落語に『つきやこうべい』というのがあるので、聞いてみてください(注4)。昔は米は全て玄米で買っていました。それを搗米屋に持っていくんですが、『何分搗』でとお願いして、その料金と後に残る糠が搗米屋の儲けです。歌を歌いながら足で踏んでいたそうです。これに対して、手で搗(つ)くのを『拝み搗き』と呼んでいたそう。丁寧で美味しい搗き方です。それで、米に石が入っていることも良くあった。これをはじかなければいけない。そして、米びつに移して、出すのが搗き屋です。もし炊いて客に出した米に石が入っていると、料理屋にとっては致命的だったのです」

「瓜と茄子は、昔、八百善が新島で促成栽培をしていたという記録があるのです。八百善は、魚を逗子の網本から買っていました。小坪にある、『くさやなぎしんざえもん』(注5)という人から買っていたそうです。魚は「おしおくり船」(注6)という、通常1人でこぐところ8人で漕ぐ高速船で買ったそうなのですが、八百善は新島の南向けの斜面に野菜を作らせて、この「おしおくり船」を使って取りに行っていたそうです。茶漬けの話は2月なので、5月の野菜である瓜と茄子はありません。それを、新島で作っていたから、2月に取れていたんじゃないかって。船も行きは良いのですが、帰りは腐るので早くしなければいけない。それで、この『おしおくり船』を使っていたのではないかというのです」

「先人たちは、これらの話は本当の話だと言っています。つまり、そんな料理を八百善は出していたというのです」

「幕末にペリーが来たときの話です。浦賀から来たとき、ペリーが食べた献立があるそうなのですが、調べたら、『結構たいしたことない』って言ったそうなんです。八百善がペリーに出したという人もいるようですが、実在する日記でメニューを調べたら、八百善のメニューではありませんでした。ペリーの通訳の記録によると、ペリーが船から下りて、最初に江戸の町を歩いたのは、八百善に来るためだったそうです。でもメニューはウチじゃありません。そこは良く分からないですね。でも、明治時代には、エリザベス女王の王子、ロシア親王、ニコライ2世が八百善で接待されたそうです。8代目は養子なのですが、それらを担当していたそうです」

「食事は、昔は1汁(じゅう)3菜、2汁5菜、3汁7菜、などとあります(注7)。その中で、1汁5菜引落(ひきおとし)膳(注8)というのがあって、それが懐石料理の流れということです。将軍様は2汁5菜、ペリーも浦賀で食べたのは2汁5菜だったそうです。2汁5菜は、1の膳、2の膳、そして余(あまり)の膳があり、それで大皿にお頭ツキの鯛を出す。それを食べないで持ち帰るのが習慣だったのです」

「こんな昔話があります。お坊様が修行しますが、年を取ると滝に打たれるのもつらい。だから、焼いた石を懐に入れて滝に打たれたと言うんです。それが、懐石の言葉の由来。で、実際にそのような感覚が1汁3菜で、右飯左汁なんて決まりもありました。それが、食べる順番などが厳しく決まっているんですよ。日本も昔はフランス料理と同じように、食礼があった。かつ厳しかった。そして、禅宗のお坊様や大名が、その本膳料理のシキタリを守っていたそうです。懐石は趣味道楽だったんですよ。本膳はペリーにも食べさせたということです」

「将軍の一日ってご存知ですか?朝起きて、蒸し風呂に入るんです。拭いてはいけないので、乾かすために浴衣を着ては汗をかいて脱ぎ、着ては脱ぎを7回くらい繰り返して、朝稽古。これも馬鹿馬鹿しいですよ。柳生十兵衛などに出てきますが、将軍は床を竹刀で3回たたけば稽古したことになったそうです。それで、朝ごはんです」

「昔は長い巻物があって、それにメニューがずらりと書いてある。そこから朝は2品、夜は3品選んだそうです。それが、物凄い量の中から選ぶから、良く分からず、最初は端から選んでいく。すると、一巡すると好き嫌いが出てきて、次回からは好きなものを注文するようになったそう。それで、夕食は3品全部本膳なんです。すると、礼儀作法にのっとって、キッチリやらなくてはいけない。それで、たまに八百善に来ると喜んで喜んで。というのもウチでは寝っ転がって食べても何してもいいんですから。献立も豊富だし。それでウチにくると『無礼講』といって、はしゃいだそうですよ」

―長い歴史のなかでは浮き沈みがあったと思いますが、一番大きな出来事は何だったのでしょうか?

「300年続けていれば色々ありますが、奢侈禁止令(注9)のときじゃないでしょうか。つまり贅沢は駄目だっていう礼法が出たときは商売が厳しかったと思います。通貨も回収して金の割合を減らして出していたりしたらしいですよ。普通景気が悪くなると『使え』と言いますが、『締めろ』だったんですね。それで、寛政から天保(1789年から1830年ごろ)の数十年間、商売ができなくなりました。これで生き残ったのは八百善と数件だけということです。その間は20年間仕出しをやって凌いだそうですよ。材料からなにから何まで持っていって、客先で料理したのです」

「あとは関東大震災でしょうか。三谷の八百善は関東大震災では全焼しましたよ。江戸から守ってきたんですが、全焼です。それで、日本橋に八百善を出しました。昔はお堀沿いに水路があって、それが流通経路でした。そのため、魚河岸が日本橋にあり、便利が良かったのです。魚河岸は震災後、築地に移りました。ただ、当初は流通に不便が多かったそうです。昭和20年3月10日、空襲で八百善は再び焼けました。これも全焼です。戦後、昭和26年に永田町の山王に店を出したんですよ。でも、昭和30年には撤収です。儲からないのです。八百善の料理は、料理人を30人も使うのです。それに、江戸料理を食べても分かる人がいなくなった。作る人間も少なくなった。商売が成り立たないんです。それで、親父は20年間店を出さず、料理教室をやって僕を育てたんです。料理教室はずっと昔からやっていたんですが。それで親父は、『店は出すな』って私に言っていたのです」

「でも、禁を破って昭和56年、私が28歳のとき、銀座に店を出したのです。それで、江戸東京博物館、新宿高島屋と出して、2003年10月に結局撤収です。コストが掛かり過ぎるのです。八百善の料理は、全部手作りなのです。それで30人使って時給3000円ですから。それを出入りに業者にやらせたら、30人が10人になる。他店はそうやっていたんですよ。今はね、デパートなんかと提携してるんです。本当は隠居したかったんだけど、デパートが八百善のメニューを再現して売りたいって。それで、鱧づくし、黒稲荷など、八百善風といって、売っていますよ。僕もようやく分かったんです。こうすると、数字が読めるでしょう。幾ら仕入れて、幾らで作って、幾らで売ってと。11代目には、『お前らの言葉で語れる江戸料理を作れ』と言っています」

−京料理は残っていますが、江戸料理はなぜ残らないのでしょう?

「一つの原因は、メニューが多いからでしょう。関西は献立が少ないのです。江戸料理は献立が多すぎる。どこかで何かを食べる、それはどこかには存在しているが、どこだかわからない。関西はね、物が無いんです。それとね、江戸っ子の気質でしょう。『俺の仕事が分からなければ、それならそれでいい。俺は知らん』ってね。職人気質なんです」

「銀座の店を僕が出したとき、昔から三谷の代に付き合っていた出入りの業者がワット押し寄せたんです。そして、ある畳屋に、座敷の畳を頼みました。ところが僕は何にも知らなかったんですね。業者は1年かかると言います。というのも、井草が無いんですよ。それで、1畳作るのに井草が2400本です。それを調達するのに1年かかるそうなのです。それで、1年経って持ってきたら、1畳16万でした。馬鹿馬鹿しいですよね。そんな商売しているんですよ。江戸の人は。だから潰れるんです」

「古くから江戸凧を扱ってきた凧屋も、つぶれてしまいましたね。履物なんかも、ほぼ全滅ですよね。昔の江戸っ子は、『セッタなんか履けるか。裏草履に霧の葉が3枚』とかいっていました。若い人は『紺のキャラコ』、別珍やススは駄目。年を取ると白足袋です」

−先ほど「八百善風」っておっしゃっていましたが、八百善の特徴は何でしょうか?

「黒豆ってご存知ですか?蜜豆の。あれは八百善が作りました。専門の器に入れて、ちゅるちゅるって、音を立てて一口で吸う。それが決まりです。それが八百善の黒豆です。あと玉子焼きは良い例でしょうか。昔は甘いものは贅沢物。八百善の玉子焼きは、切って包丁を抜くと、砂糖が糸を引くんです。金時なんかも、冷えるとゴワゴワ砂糖が浮いてくる。でも、そんな味は今は受け入れられませんよね。他の日本料理屋さんなんて、上手く付加価値をつけていますよね。例えば、牡蠣。秋に出すとき、秋らしくって赤い落ち葉を添えて出す。それが八百善だと『馬鹿やろう。味で秋を表現しろ』ということになるんです」

「松川しんじょ、という料理があります。鯛を3枚におろして、皮をガラスに引いて貼る。身は骨をとって、荒だたきして、物凄い大きなすり鉢に入れて摺る。そして裏ごしして、ペーストにする。鯛の形に組んで、皮をはって、蒸して、切って、御椀として出す。半日かかりますよ。でもこれが八百善の料理です。だから、30人板前が必要になる。1人前の板前になるのに8年は掛かる。しかも、こんなことやっているから独立できないんです。たった1人だけ、私の弟子がいましたけどね。それで材料の割合とかコスト率と言うと、親父は『率、率、っていうな。上手いものいっぱい出せばいいじゃないか』ですから。1杯800円の御椀にこんな手間ですよ。儲かりませんよね」

「鰆という魚はご存知ですか?八百善では四角く切って出します。『行儀切り』って言います。行儀が良い、高級な切り方です。鮭などの切り方は『羽切り』と言いますね。羽切りには2つのメリットがある。大きさが倍に見えるのと、背と腹が食べられる。でも行儀切りでは、片方しか食べられません。高い切り方なのです」

「それでも、築地の八百善は、震災後には儲かったそうですよ。昭和2年に築地に移転したそうなんですが、日本の悪い時代でした。それで『八百善に行けば、何か食える』って皆来たのです。昭和19年の暮れまで営業してました」

−それも戦争で燃えたんですね

「江戸の全ての文化が燃えましたね。ウチにも味噌の本などがありましたが、燃えました。江戸味噌とか八百善味噌とか。今江戸味噌やっているのは、日本橋に1〜2店だけじゃないでしょうか。『江戸白(えどじろ)』という味噌です。戦争後は信州や仙台味噌が多くなりましたね。八百屋善は結局、表現の仕方が下手だったのでしょうか」

Urban Heritage Chronicle編集部補足
注1)編集部確認済
注2)250文で1朱、4朱で1分、4分で1両
注3)つきや:搗米屋
注4)つきやこうべい:搗屋幸兵衛。「小言幸兵衛」の一部分を独立させた囃子。
注5)編集部では確認できず。
注6)押送船。「おしょくり船」と呼ばれることもある。江戸前や相模、房総などから日本橋の魚河岸へ鮮魚を運ぶことを目的とした快速船。
注7)日本料理の正式な膳立てで、本膳料理と呼ばれる。各膳の料理内容や食べ方にもルールがある。一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあったとされ、例えば、一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、飯と香の物は、数えないと言われている。
注8)二番目に出す膳で汁のない場合を 「引落(ひきおとし)」 と呼ばれていたと言われている。
注9)江戸幕府が出した、贅沢を禁ずる一連の法令

 
     
 
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