銭湯・ペンキ絵〜東京から消えてゆく、もう一つの富士山
*この記事は、2005年7月21日にデイリーヨミウリ紙に掲載された英文記事に翻訳・加筆したものを、同紙の許可のもと掲載しています。原文はこちらをご覧下さい
 
 

昔の人は富士山の見える坂を「富士見坂」と名づけ、晴れの日は、その坂の上から富士山を楽しんだという。現在でも東京の様々なところに「富士見坂」が残っているが、ビルが林立する東京では、残念ながら「富士が見える坂」は少ない。しかし、富士を望む景色は、今でも特別なものである。「富士山が見える展望」を売りにしている新築マンションは多く、東名高速を走れば必ず富士山に目を奪われる。ところが、今、もう一つの富士を望む景色が東京から消えかかっている。

大きな富士山の絵は、日本の銭湯の名物である。人々は、広々とした銭湯の風呂につかり、ゆっくりと手足を伸ばし、富士山の絵を見ながら一日の疲れを癒す。

この銭湯にある富士山の絵は、ペンキを使って描かれるため、「ペンキ絵」と呼ばれる。絵柄は富士山に限ったわけではないが、富士山が一番用いられている。実はこのペンキ絵、90年前に始めて描かれたもので、戦争や不況などの間にも庶民に憩いを与えてきた。ところが、ポップ・アートの歴史にも重要な足跡を残すこのペンキ絵が、現在、東京から消え去ろうとしている。

最盛期には都内だけで2000件以上の銭湯があり、その殆どの壁にはペンキ絵が描かれていた。しかし、昔と違い今ではほぼ全ての家に風呂があるため、銭湯の数は激減した。銭湯は現在、都内で約1100件程度しか残っていないとされている。当然、ペンキ絵も合わせて消え去っている。

「こんなことを言うのは嫌ですが、この芸術は消え去る運命にあります。残念ですが、誰もこの流れは防げないのです」と語るのは、現在でも活躍する数少ないペンキ絵師の一人、丸山清人氏。「私ができることは、人生残りの時間になるべく多くのペンキ絵を描くことしかないのです」。丸山氏は50年のキャリアをもつ。現在東京に3人しか残っていないと言われるペンキ絵師の1人で、その中で最も経験が豊富だ。

ペンキ絵のルーツは、東京神田の猿楽町にあった銭湯「キカイ湯」にある。キカイ湯のオーナーが1912年に別館を建設した際、子供が楽しめる何かを作ろうとしたことに端を発する。当時ペンキ絵は風呂屋の壁面広告とセットで、広告代理店が扱っていた。風呂屋はペンキ絵を無料で描いてもらう代わりに、広告の場として壁面を無料で提供していた。絵は広告代理店が自社で抱えていたペンキ絵師に書かせていた。

ペンキ絵を扱う代理店として、当時有名だったのが背景広告社。多くのペンキ絵師はその社員だった。当時は広告の契約が年に1回更新していたため、ペンキ絵も年に1回書き直していた。ところが、今は広告が無いので、銭湯が自腹を切って絵師に絵を頼んでいる。絵師も今はフリーだ。

絵のデザインとして一番多いのは富士山。それ以外にも、瀬戸内海、北海道の大沼公園、そして宮城県の松島などが代表的なデザイン。「一昔前の日本はそれ程裕福な国ではなかったため、旅行などは難しかったのです。皆銭湯につかり、景色を見ながら旅行に行った気分になっていました。中にはエベレストを描いたペンキ絵もありましたよ」と丸山氏は語る。

ペンキ絵という芸術を語る際に挙げられる特徴の一つに、非常に厳しい条件の下で描かれる点がある。通常、ペンキ絵師は朝早く現場に入り、銭湯がオープンする時間、おおよそ夕方5時頃には作業を終わらせなければならない。ペンキ絵は通常、13メートル程度の幅になる。これを8時間で仕上げなければならない。さらに、絵は熱湯の溜まる湯船の上で描かれる。時間の制約に加えて、高温高湿度という過酷な条件で仕事は行わなければならない。

「簡単そうに見えるけど、ペンキ絵には特別な技術が必要なのです」と丸山氏は説明する。「まず風呂場の壁に布をはり、ニカワで布の目をぬりつぶして、ペンキを下塗り。そして絵を描きます」

時間の多くが下地の準備と乾燥に当てなければならないため、実際に絵を描くのは2〜3時間しかない。「これがペンキ絵の素晴らしいところなんです」と、ポップカルチャーの調査と銭湯研究ではパイオニアの町田忍氏は語る。「他のどのような芸術も、こんなに大きな絵をこんなに短時間で描けません」

 


Photos by Wataru Doi


東京都大田区にある「明神湯」には、丸山氏が描いた
富士山のペンキ絵が見られる


伝説的なペンキ絵氏、丸山清人氏


ペンキ絵に取り掛かる前にペンキを準備する丸山氏
(1988年撮影。丸山氏所有の写真)


 
 

町田氏は2002年、ペンキ絵の展覧会を三鷹市芸術センターで開催。そのイベントの中で、現存する3人のペンキ絵師(早川氏、中島氏、そして丸山氏)が観客の前でペンキ絵を実際に描く、という試みを行った。「彼らは200人の観客の前で、大きな絵を2時間半で仕上げました。驚くべきことです」と町田氏は語る。

ペンキ絵師の仕事は、時に危険を伴う。「一度、間違えて梯子から湯船に落ちたことがあります。昔はお湯をずっと沸かしておいて、開店する直前に水を入れて冷ましていたのです。酷い火傷を負ってしまいました」と丸山氏は回想する。

ペンキ絵師には、熟練した技術に加え、色とデザインに対する優れた感覚も必要だ、と丸山氏は強調する。「我々は明るい雰囲気を出すために、薄い色を使うのです。その方が人々が明るく幸せな気分になるじゃないですか。銭湯はリラックスする場所ですから。5月とか6月の色、例えば明るい緑なんか良いですよね。冬の色は見る人を暗い気持ちにするので、あまり使いません。青は絵を明るくするので、水はどの絵にも入れます。海、湖、川を書きますが、川は難しいのです。というのは、面積が少ないんで明るさを出すのが難しい。その点、私の師匠は川を使うのが上手でした」

構図には色々なパターンがあるが、殆どの絵は富士山を中心に据えている。上述の町田氏は全国3000以上の銭湯を回ったが、「お客の好みもあって90パーセントのペンキ絵に富士山が使われている」という。

ペンキ絵のテクニックにも変遷がある。例えば、昔は空を塗るのにブラシを使っていた。それを変えたのが、前述の現在も活躍するペンキ絵師の一人である、中島氏。彼はローラーを使うことで時間を短縮した。

町田氏は、ペンキ絵は美術史上でも重要な意味を意味を持つと言う。「テクニック的には、江戸時代から明治時代に移るにしたがって入ってきた西洋技法が取り入れられています。平賀源内(1728-1779)が紹介した陰影法ですね。それまで日本の絵画は、線と色で分けていました。ペンキ絵はその陰影法の流れをくんでいます。これは、昔の映画看板、紙芝居、見世物小屋の絵などにも取り入れられています。話が逸れますが、見世物小屋の絵は九州の小倉に素晴らしい絵師がいたのですが、今は誰も書ける人がいません」

町田氏はさらに続ける、「陰影法以前は、絵は平面的でした。銭湯では湯煙を通して絵を見るため、陰影法が必要だったのです。湯気の中で見るので、近くで見て大雑把、でも遠くから見ると綺麗に見えるように描きます。サーカスのチラシでは、美しく、綺麗な技術を使っています。昔は福岡県の小倉に腕の良い画家がいたのですが、皆亡くなってしまい、その技術を継承する人はいません。ペンキ絵師たちはその技術を守り、今迄守ってきています」

ペンキ絵師になるまでの道のり

ペンキ絵師になるのは簡単なことではない、と丸山氏は言う。「入門者は最初の3年間、空の色を青く塗ることだけ許されます。多くの入門者はこの時点で辞めてしまいます。入門者はしばらくの間、プロのペンキ絵師の仕事を見て、プロセスを学びます。そして、横の部分を塗ることを許され、次に雲を塗ることを許され、そのようにして徐々に全体を描くことを許されるのです。そこまで行くのに大体6年間位かかるでしょうか」

丸山氏は18歳のときにこの世界に飛び込んだ。当時は全てのペンキ絵師は広告代理店に所属していた。絵を描くことが大好きであった丸山氏は、叔父である丸山喜久男氏が経営する広告代理店、背景広告社に入社した。叔父の喜久男氏は同時に、名の知れたペンキ絵師でもあった。丸山氏は喜久男氏の助手になった。

「叔父からは多くのことを学びました。例えば、ペンキ絵師は通常、川を描くのを好みません。ペンキ絵では青色を多く入れることで明るさを出します。ところが、細くて曲がりくねっている川では、絵全体が明るくならないのです。でも、叔父の川は絵を明るくしていました」。丸山氏は24歳で独立した。

銭湯のペンキ絵は高温の蒸気と湿気に晒されるため痛みやすく、通常1年に一度の頻度で描き換えられる。描き換える際は、古い絵を消してしまうのでなく、古い絵の上に新しい絵が描かれる。「まず、古い絵の上にチョークで下書きをします。その後、ざっと色だけを付けます。空を青に塗ったり、岩を茶色に塗ったり、草を緑に塗ったりといった具合です。最終的に、細かい部分を仕上げ、完成するのです」と丸山氏はプロセスを説明する。

ペンキ絵師にとって、東京オリンピックの後が最も良い時代だった、と丸山氏は回想する。多い日は週6日働き、時には1日に2つの銭湯で絵を描いたこともあるという。景気も良かったので、銭湯は毎年ペンキ絵を換えていた。当時は東京だけでも、数十人のペンキ絵師が活躍していた。

現在の銭湯は、残念ながら毎年ペンキ絵を換えるほど潤っておらず、丸山氏も1月に4~5件程度しか仕事が無い。最近は一般家庭の風呂や、時にはスーパー銭湯と呼ばれるスパハウスから仕事が来ることがあるが、そう頻繁ではない。

「以前息子が、私の仕事を継ぎたいといったことがあるのですが、やめた方が良いと言いました。この仕事で食べていくのは正直、難しいですよ。ペンキ絵師にとって、今は本当に大変なときです」と言う丸山氏は、どこか悲しげだ。

熱狂的な銭湯ファンの町田氏は、この状況を憂い、ペンキ絵を守ろうとしている。「私が何千もの銭湯の湯に浸かる様になったのは、あるオーストラリアの友人からの質問がきっかけでした。彼に何か日本の伝統的なものを紹介しようと思い、銭湯に連れて行きました。すると、彼は何故銭湯が寺院のような風貌なのか私に尋ねたのです。残念ながら答えられませんでした。そこではじめて、多くの銭湯が朽ち果てていこうとしていることを理解し、調査を始めたのです」

「ペンキ絵を見るための銭湯ツアーも企画しています。ちょっと前にも企画しました」。また、世田谷美術館の学芸員インターンを銭湯ツアーに連れて行く予定もあり、その中で、ペンキ絵の構図と絵画について学んで欲しいと考えている。町田氏はまた、個人的にペンキ絵のコレクションも所有している。

町田氏によると、毎年平均40店の銭湯が閉店している。「閉店する銭湯の殆どがペンキ絵を所有しています。推定では、ペンキ絵を所有している銭湯はもう200も無いのではないでしょうか。ペンキ絵を持っている銭湯でも、金銭的な問題を抱え、7年も8年もペンキ絵を描き換えて居ないところもあります」

町田氏のお薦めは、足立区北千住の大黒湯と、大田区雪谷の明神湯。「でも、分かって欲しいのは、ペンキ絵の状態はあっという間に変化してしまうので、将来ずっと同じ状態で見ることができるとは限らないことです」

明神湯にあるペンキ絵は、昨年に丸山氏が描いたものだ。静岡県の西伊豆から富士山を見た絵である。盆休みの時期に描いた為、いつもより長い時間をかけて、じっくりと描いた。明神湯のおかみさんは「夜8時まで、色々と工夫をして描いていました」と語る。以前、早川氏が明神湯を描いたときは、荒々しい波が大きな岩に打ち付けるような絵であったという。これに比べて、丸山氏の作品は優しい雰囲気で、広がりがあるという。「最近はお客様の年齢もあがってきたので、よりリラックスいただくために丸山氏にお願いすることが多くなりました」と語る。

かつては晴れた日、東京のどの丘からも、同じ富士山が見えていた。今はスモッグと高層ビルに隠れ、都会から富士山の景色は消えてしまった。ペンキ絵の富士山もまた消えつつあるが、銭湯の熱い湯に使った思い出と共に、銭湯世代の心には残るだろう。

 
     
 
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